天保暦置閏法の謎 1. はじめに 定朔定気法を採用した天保暦の置閏法は、中国の時憲 暦に由来するとされてきた。しかし、天保暦の置閏法が 日本のオリジナル・ルールだった可能性もある。 2. 天保暦の置閏法 天保暦の置閏法について明文化され刊行された記述は、 『暦法及時法』[1]の -------------------------------------------------- (1) 太陽と太陰の黄経の相等しき時刻を朔とす(定朔)。 (2) 各宮の原点に太陽の在る時刻を中気とす(定気)。 (3) 暦日は京都に於ける地方真太陽時午前零時に始まる。 (4) 暦月は朔を含む暦日に始まる。 (5) 暦月中冬至を含むものを十一月、春分を含むものを 二月、夏至を含むものを五月、秋分を含むものを八 月とす。 (6) 閏は中気を含まざる暦月に置く。 中気を含まざる暦月必ずしもみな閏月とならず。 明治五年改暦以後同四十二年迄、太陽暦に付して頒布 したる太陰暦も亦、この原則に拠りたるものなり。但 し第三項の日の始めは明治二十年迄は東京に於ける地 方平均太陽時午前零時を採り、以後は中央標準時午前 零時に改めたり。 (日本百科大辞典より転載) -------------------------------------------------- に遡ることができる。今日おびただしい解説書にある説 明も、元をたどればこの記述にたどり着くと思われる。 天保暦を定義している『天保暦書』(国立天文台蔵)に は単に、 内無中気者為閏月 とあるだけであり、平山清次は実際の計算例を元にルー ルを明文化したものと推定される。 このルールの由来については『暦法及時法』[1]に説明 があり、さらに『日本史小百科 暦』[2]に、 これに反して、定気(実気)による場合には、太陽が天 上で黄経十五度を移動するに必要な時間、すなわち節 気の時間間隔は、太陽の運動に季節による遅速がある ので、それに伴って一五・七三日から十四・七二日ま で変動する。そこで、中気から中気までの間隔は三一 ・四六日から二九・四四日まで変化する。そのため、 一朔望月(暦の一か月)の間に中気が二つはいってしま うような場合が生ずる。こうなると、月名を定めるの に、含まれる中気の月名による方法は使えなくなり、 同時に恒気の場合のような置閏規則だけではすまなく なる。そこで定気を採用した中国では、嘉慶年間(1796- 1820)に、 いかなる場合でも、冬至は十一月、春分は二月、夏 至は五月、秋分は八月とすべきである。 と定めた。閏月はこの規定に背かない範囲で適当に置 くこととする。 とある。平山清次と広瀬秀雄はこのルールが中国におい て清朝の嘉慶年間に定まったと明言している。 3. 時憲書記載の置閏法 では、時憲暦の置閏法についてはどのような記述があ るか? これは、『清史稿』「時憲志」康煕甲子元法上に、 求閏月以前後両年有冬至之月為準中積十三月者以無中 気之月従前月置閏一歳中両無中気者置在前無中気之月 為閏 とある[3]。つまり、 (5') 冬至を含む月を11月とする。 (6') 次の冬至まで13ヶ月ある場合、中気を含まない最 初の月を閏月とする。 である。黄一農[4]によればこのルールは湯若望(Adam Schall)が導入したという。 4. ルール(5)の由来 注目すべきことは「時憲志」にはルール(5)(6)に相当 する記述がないことである。 そこで、広瀬秀雄が台長をしていた東京天文台(現在 は国立天文台)を訪ね、「嘉慶年間の改暦」について言 及している中国の文献を探してみた。唯一発見できたも のが『閏八月攷』[5]である。『閏八月攷』によれば、 萬年書が嘉慶年間を境に改訂され、嘉慶十八年(1813年) 閏八月がなくなり、嘉慶十九年(1814年)閏二月に変更さ れたとのこと。ただし著者はルールについては、(5')を 想定するも、直接の根拠を指摘できていないことが確認 できた。 また、国会図書館で嘉慶年間の前後の萬年書を比較確 認して、『閏八月攷』の指摘通り、乾隆年間以前の萬年 書には嘉慶十八年閏八月があって嘉慶十九年閏二月がな く、道光年間の萬年書には嘉慶十九年閏二月があって嘉 慶十八年閏八月がないことを確認した。 さらに、東京大学文学部の川原秀城教授より『皇朝続 文献通考』第二百九十四嘉慶十六年の条に「嘉慶年間の 改暦」についての記事があることをご教示いただいた。 同記事によれば、嘉慶十六年に、嘉慶十八年〜十九年の 置閏を見直した理由は、 i. 冬至の祭りである「南郊大祀」が仲冬之月になけ ればならない。 ii. 春分のある月の最初の丁の日(上丁)、戊の日(上 戊)の祭りが仲春之月になければならない。 と判断し、この見直しルールが以後200年間にわたって 破綻しないことを確認したためであるという。つまり (5'')暦月中冬至を含むものを十一月、春分を含むもの を二月とす。 であり、夏至と秋分については制約があったか否かは 確認できないが、天保の改暦において清朝のこの嘉慶 年間の動向が参考とされたことは間違いないであろう。 (5'')が(5)に変わったのが、清朝においてか日本におい てかははっきりしない。(5)が日本のオリジナル・ルー ルである可能性もあり得る。 5. 清朝の置閏 嘉慶年間に『皇朝続文献通考』に記されたような議論 がおこり(5'')のごとき判断が行われたという経緯を信 ずるとすると、湯若望の規定が尊重するべきルールとし て当時の清朝の欽天監に認識されていなかったと結論せ ざるを得ない。いま、清朝期の中気を含まない月のうち 閏月とならなかった月とその前後を列挙すると表1のごと くなる。これによれば実際に実施された暦は湯若望の規 定(5')(6')と整合している。 表1 閏月でなくかつ中気のない暦月とその前後 +-----------------+----------+----------+-----------+ | 中気のない暦月 | その朔 |5 6と整合?|5'6'と整合?| +-----------------+----------+----------+-----------+ | 康煕 19年 閏8月 |1680/ 9/23| ○ | ○ | | 康煕 19年 12月 |1681/ 1/20| ○ | | +-----------------+----------+----------+-----------+ | 康煕 38年 閏7月 |1699/ 8/25| ○ | ○ | | 康煕 39年 2月 |1700/ 3/21|春分在正月| | +-----------------+----------+----------+-----------+ | 乾隆 40年閏10月 |1775/11/23| ○ | ○ | | 乾隆 40年 12月 |1776/ 1/21| ○ | | +-----------------+----------+----------+-----------+ | 乾隆 59年 10月 |1794/10/24| ○ | ○ | | 乾隆 60年 閏2月 |1795/ 3/21| ○ | | +-----------------+----------+----------+-----------+ |(嘉慶 18年 閏8月)|1813/ 9/24|冬至在10月| × | |(嘉慶 19年 2月)|1814/ 3/22|春分在正月| | +-----------------+----------+----------+-----------+ | 嘉慶 18年 9月 |1813/ 9/24| ○ | ○ | | 嘉慶 19年 閏2月 |1814/ 3/22| ○ | | +-----------------+----------+----------+-----------+ | 道光 12年 閏9月 |1832/10/24| ○ | ○ | | 道光 13年 正月 |1833/ 2/20| ○ | | +-----------------+----------+----------+-----------+ | 咸豊 元年 閏8月 |1851/ 9/25| ○ | ○ | | 咸豊 2年 2月 |1852/ 3/21|春分在正月| | +-----------------+----------+----------+-----------+ | 同治 9年閏10月 |1870/11/23| ○ | ○ | | 同治 9年 12月 |1871/ 1/21| ○ | | +-----------------+----------+----------+-----------+ 湯若望の規定が尊重するべきルールとして清朝の欽天監 に認識されていなかったにも関わらず、結果的にルール 通りの暦になっているのは、たまたま冬至から冬至まで の区間に中気のない月が複数ある事例が出現せず、かつ、 (5')が、 A. 通常作暦を行う場合、まず天正冬至を決定し、これ を基準として1年間の暦をつくる。この結果、自然に 冬至が11月に含まれることになる。 B. 嘉慶年間以前から、「南郊大祀」が仲冬之月になけ ればならないことが配慮されていた。 などの理由により結果的に満たされたためであろうか? 注目すべきことは、年代に関係なくすべての萬年書の 咸豊二年(1852年)の二月に中気がないことである。直前 の冬至を含む月の翌々月が春分を含むため、前年の冬至 を含む月を十一月にすると、春分を含む月を二月にする ことができないのである。つまりルール(5),(5'')は破 綻する[6]。以後200年間にわたって破綻しないことを確 認したはずのものが、現実にはわずか38年(2メトン周期) 後に破綻していることは不可解である。今後の検討が必 要な点であろう。 6. おわりに 天保暦の置閏法の由来を中国の清朝嘉慶年間の「改暦」 にもとめる記述は、『暦法及時法』[1]およびそれを参考 とした文献しかない。実際には天保暦の置閏法は日本の オリジナル・ルールであった可能性がある。 計算によれば、中国で咸豊元年〜二年に起こったのと 類似の状況が日本においても西暦2033年〜2034年に再び 起こる。日本においては太陰太陽暦のルールのメンテナ ンスがもはや行われておらず、民間のカレンダーの混乱 が予想される[7,8]。 [1] 平山清次『暦法及時法』恒星社(1938) P.38,45-46. [2] 広瀬秀雄『日本史小百科 暦』近藤出版社(1978) P.26-27. [3] 藪内清『増補改訂中国の天文暦法』平凡社(1990) P.283. [4] 中國農暦置閏法則 http://juns.uhome.net/big5/ast-date/ [5] 龍穉、王錫[衣其]『閏八月攷』光緒26(1900). [6] 日本の天保暦では、基準とする経度が異なるため、 ルール通り嘉永5年閏2月があらわれ破綻はない。 内田正男『日本暦日原典第四版』雄山閣(1992) P.483. [7] 西澤宥綜『暦日大鑑』新人物往来社(1994) P.403. [8] http://www.asahi-net.com/~dd6t-sg/when/china.html#2-5 <参考> 康煕38年(1699)-康煕39年(1700) 朔日 中気 A. 1699/08/25 丁酉 閏七月 B. 1699/09/23 丙寅 09/23 (秋分) C. 1699/10/23 丙申 10/23 (霜降) D. 1699/11/21 乙丑 11/22 (小雪) E. 1699/12/21 乙未 12/21 (冬至) F. 1700/01/20 乙丑 01/20 (大寒), 02/18 (雨水) G. 1700/02/19 乙未 03/20 (春分) H. 1700/03/21 乙丑 二月 I. 1700/04/19 甲午 04/20 (穀雨) 嘉慶18年(1813)-嘉慶19年(1814) 朔日 中気 A. 1813/08/26 乙未 09/23 (秋分) B. 1813/09/24 甲子 九月 C. 1813/10/24 甲午 10/24 (霜降), 11/22-(小雪) D. 1813/11/23 甲子 12/22 (冬至) E. 1813/12/23 甲午 01/20 (大寒) F. 1814/01/21 癸亥 02/19 (雨水) G. 1814/02/20 癸巳 03/21 (春分) H. 1814/03/22 癸亥 閏二月 I. 1814/04/20 壬辰 04/21 (穀雨) 咸豊元年(1851)-咸豊2年(1852) 朔日 中気 A. 1851/08/27 乙卯 09/23-(秋分) B. 1851/09/25 甲申 閏八月 C. 1851/10/24-癸丑 10/24 (霜降) D. 1851/11/23 癸未 11/23 (小雪) E. 1851/12/22-壬子 12/22 (冬至) <- 朔は日本時間翌0:34頃 F. 1852/01/21 壬午 01/21 (大寒), 02/19 (雨水) G. 1852/02/20 壬子 03/20 (春分) H. 1852/03/21 壬午 二月 I. 1852/04/19 辛亥 04/20 (穀雨) 西暦2033年-西暦2034年 朔日 中気 A. 2033/08/25 戊申 B. 2033/09/23 丁丑 09/23 (秋分) C. 2033/10/23 丁未 10/23 (霜降) D. 2033/11/22 丁丑 11/22 (小雪), 12/21 (冬至) E. 2033/12/22 丁未 F. 2034/01/20 丙子 01/20 (大寒), 02/18 (雨水) G, 2034/02/19 丙午 H. 2034/03/20 乙亥 03/20 (春分) I. 2034/04/19 乙巳 04/20 (穀雨) 注: 日付の後ろの"-"は、時差により日本と日付が異な るもの -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=