佛性の研究 文學博士 常盤大定 著 序 佛陀によつて開基せられ,佛陀を以て終局とする佛教にあつて は,その教義も,その信仰も,佛陀たり得ベき本性としての佛性によ つて始終し,經緯せらるゝを以て,佛性はやがて佛教全般を該羅す ベき意義と範圍とを有す。發心も佛性なり,修行も佛性なり,真如 も佛性なり,法身も佛性なり。三國に亘れる經論と,疏釋と,古今を 通ぜる教理と,行果と,一に佛性を中心として廻轉せり。斯くて佛 教の全般は,佛性によつて之を概括し得ベきも,然れども斯る廣汎 なる意義の佛性は,本篇の能く盡し得ベき所にあらず。 佛教に大乘小乘の二類ある中に於て,佛性問題の論議せられた るは,大乘佛教なり。大乘佛教中に,一乘三乘の兩系あり。是等兩 系の大乘佛教は,元來その立脚地を異にし,之に伴つて,佛性の根本 觀念を異にするを以て,之に對する取扱に於て,その性質と範圍と に於て,亳釐千里の差あり。一乘佛教に於ける佛性は,萬有を該羅 し,一切に普遍するを以て,當然悉有となり,一切を皆成ならしめた りと雖も,三乘佛教に於ける佛性は,頗る之と異り,吾人の心識中に 含藏せらるゝものにして,非情に及ばざるのみならず,同一人類中 にあつても,有無不定となり,自他各別ならしめたり。同一大乘佛 教にありながら,佛性の觀念の相違は,一は一切悉有たらしめ,他は 有無不定たらしめたるは,相當に意義の存する所にして,此の一篇 は,一乘三乘兩系間に交渉せられたる佛性問題を取り扱はんとせ るものなり。 佛性問題中に於て,特に興味あるものは,畢竟無性の思想なりと す。畢竟無性とは,永遠に成佛し得ベき性能なきの謂なり。如何 にして斯の如き思想が,大乘佛教中に存在するか,斯る意味の佛性 は,佛教の精神上詐容せられ得ベきものなりや。實に此の思想は, 佛性問題の暗礁にして,三國に亘れる佛性の研究は,主として畢竟 無性を中軸として回轉し,これを主題として幾多の波瀾を生じ,こ ゝに問題の深酷を加ヘ,以て能く佛性の意義を發揮せしめたりと いふも不可なし。此の一篇は,一乘三乘兩系間に交渉せられたる 佛性問題を取扱ヘるを以て,従つて,見方によつては,畢竟無性を主 題とせりとも言はるベきも,問題の波及する所,佛性全般の研究に 及ベるを以て,之を題して「佛性の研究」と為せり。 思ふに,佛性は,時あつて有無不定と思はるゝまでに微力なるも のなれども,時あつて法界に彌漫するに至るベく,そが時に法界に 彌漫し,時に有無不定なるは,これやがて一性皆成の思想あり,五性 各別の思想あらしむる所以なるベし。此の一篇は,東京帝國大學 に於ける講義の草稿を基礎として,之に補正を加ヘたるものにし て,述ベ去り述べ來つて,將に六百頁に垂んす。これによつて,一乘 三乘兩系間に交渉せられたる佛性問題の種々相は,概ね網羅せら るベしと思ふ。是に至つて顧みるに,畢竟無性を主題とせりとも 見らるベき此の一篇は,三乘の佛性に關する方面多きに過ぎしか の感あり。更に方面を轉じて,三乘佛性を絶えず顧慮しつゝ,一乘 の佛性を當面の問題として,論議を進むるの要あり。之に關して は,筆を新にして,特に之を論ずるの日あらんを期するものなり。 此の研究につきては,寡聞にして先人の行跡を識らず,殆んど全 部に通じて獨自の研鑽に属するを以て,恐らくは各方面に亘りて, 未了缺陷多かるベし。大方の指示を得て,之が完成を期せんとす る意切なり。最後に,斯の如き特殊研究の出版につきて,幾多の犠 牲を忍びつゝ,之を快諾せし道友高島米峰君の同情に對して,甚深 の謝意を表するものなり。 昭和五年三月七日 寓礫川指谷 常盤大定識 本有今無 本無今有 三世有法 無有是處 善男子,有者凡有三種。一未來有,二現在有,三過去有。一切 衆生,未來之世,當有阿耨多羅三藐三菩提,是名佛性。一切衆 生現在悉有煩惱諸結,是故現在無有三十二相八十種好。一 切衆生,過去之世,有斷煩惱,是故現在得見佛性。以是義故,我 常宣説一切衆生,悉有佛性,乃至,一闡提等,亦有佛性。一闡提 等無有善法,佛性亦善,以未來有故。一闡提等悉有佛性,何以 故,一闡提等定當得成阿耨多羅三藐三菩提故。善男子,譬如 有人家有乳酪,有人問言,汝有蘇耶,答言我有酪實非蘇,以巧方 便定當得故,故言有酥。衆生亦爾,悉皆有心,凡有心者定當得 成阿耨多羅三藐三菩提。以是義故,我常宣説一切衆生,悉有 佛性。 大般涅槃經第二十七,師子吼菩薩品一。 佛性の研究 文學博士 常盤大定 著 緒論 佛性問題概説 成佛を以て終局とする佛教に於て,佛性の問題は,最初にして而も亦最後ともい ふべきまでに,重要なる意義を有す。一切の經論も,疏釋も,見方によりては,悉く佛 性問題の種々相なりと言ふを得べし。佛性に關して究明せらるべき問題,頗る多 し。これと眞如との關係,これと人性との關係,はた又,これと發心修行との關係,こ れと無明との關係,殊にこれと如來との關係等,數へ來れば佛教教理の全般に及ぶ の勢あり。斯くまでに重要にして,且つその範圍廣汎に亘るを以て,制限の上にも 制限を加へざれば,遂に問題の中心を失ふの虞あり。此の研究は,佛性論諍の問題 となりし正因・縁因のみに限りて,その他に及ばず。直接なる事項のみを取扱ふを 以て,その主眼とし,此問題を中心として,三國に亘れる一乘對三乘兩系間の論諍を 見ることとせり。而もその間に於ても,一乘家の佛性説に關しては,特に省筆して, 佛性問題の暗礁ともいふべき無性有情を中心とせるを以て,研究の範圍は,極めて 制限せられて,或は無性有情の研究と見るも可なり。而も無性有情の問題の及ぶ 所,これにして解決せらるゝ時は,一性・五性の問題は,刀を迎へて解くるの勢あり。 これ研究の範圍が極めて狭きにも關らず,而もその中に含まるゝ意義に至りては, 頗る重大なるを以て,特に之を「佛性の研究」と題せし所以なり。 是を以て,先づ印度篇に於て,「涅槃」「般若」「華嚴」「勝鬘」「楞伽」の諸經,「瑜伽」「顯揚」「荘嚴」「佛性」「唯 識」「佛地」の諸論の中,直接にこれに關係ある部分に觸れ,支那篇に移りて,道生・六朝・浄 影・天台・嘉祥・霊潤・神泰・慈恩・法寶・慧沼・法藏の諸師に亘りて,此問題に關係ある論草を 通觀し,日本篇に於て,徳一・傳教・玄叡・宗法師・慧心・親圓・基辨の諸家について,直接の撰 述を攻究せり。斯く三國に亘りて多數の撰述を研覈せりと雖も,問題の性質上,常 に天台を以て代表せらるゝ一乘家と,唯識を以て代表せらるゝ三乘家とを對立せ しめたり。一乘家が一性皆成の思想にして,唯識家が五性各別の思想なるは,今更 言ふの要なし。而して一乘家の中には,涅槃宗・三論宗・天台宗・華嚴宗ありと雖も,佛 性問題に於ては,次第にその歩調を一にして,その間に區別を附し難きまでの致一 あるを以て,之を概括して,一乘家といふに於て何の支障なく,之に對して,終局その 堅陣を張りしものは,唯識家なり。佛性の研究は,要するに唯識家に對する他の一 乘家の論難往復なりとす。 顧みるに,印度の大乘佛教たる,同一唯心説中に於て,如來藏を中心とする唯心系 と,阿頼耶識を中心とする唯識系とあり。如來藏中心の唯心系は,即ち一乘思想に して,阿頼耶識中心の唯識系は,即ち三乘思想なり。此兩系は,印度に於て既に兩々 相對峙し,更に同一唯識系の中に於ても,唯心的のものと唯識的のものとあり。其 間に於ける重々の論難は,次第に問題の所在を明白ならしめ,印度に於て既に明白 なりし問題は,支那を經て,日本に來りて,一層多く微細を極めたり。斯くて三國に 亘れる同一問題の研究なるを以て,成るべく之を避けんと努めたるに關らず,中に 重複の嫌ある個處の存するも,亦止むを得ざる所とす。最後に,特に眞如所縁縁に 關する論難を別出し,又,無性の文證を附出せり。 一 佛性に關する兩系の思想 佛性とは覺悟の本性をいふ。この本性が,如何なるものにも具有せらるべきは 自明の理の如くなれども,長き佛教教理史を通觀する時は,頗る繁難なる問題を伴 ひ,その具不につきて,佛教學者を惱殺せしめたるもの少なからず。理想と事實と の間に矛盾あるは,今古轍を同じくする所。蓋,佛性に關せる論諍は,事實問題にそ の端を發して,次第に人性の本質中にその根據を求むるに至れる結果にして,要す るに<一切皆成思想>と,<五性各別思想>との對立なり。問題の中心は,同一人間中に無 佛性のものありや否やにあり。斯くて,佛性の有無問題を中心とする時は,是等兩 系の思想は,<一切有性説>と<一分無性説>との對立となる。而してその佛性の意義に 關して,之を<理佛性>とするか,<行佛性>とするかの對立あり。一切有性説は理佛性に 立ち,一分無性説は行佛性に立てり。佛性が成佛の親因たる意義より,之を種子と 名くる時は,理佛性は<眞如種子>とせられ,行佛性は<無漏種子>とせらる。眞如は吾人 の心識を包含するも,無漏種子は吾人の心識中に藏せらるるものなり。理性眞如 の一切に遍通するは,兩派の認むる所,また如何に理性ありとも,之を開發すべき實 修なくば,成佛するを得ずといふも,また兩派の共に認むる所なれば,問題は,理性眞 如の有無にあらず,又,實修なきものを許容するにあらずして,一切に無漏種子あり や否やといふにあり。一歩を進むる時は,斯る意味の無漏種子なるものは,果して 理論上許容せらるべきものなりや否やにあり。 元來,佛性の問題は,之を先天的(<性得>)のものとするか,後天的(<修得>)のものとするか によりて,兩説を分てり。性得論者は,之を一切に悉有なりとし,修得論者は有無不 定とせり。佛性論諍は,性得のものか修得のものかの問題に始まれり。而して,之 を性得のものとするも,實修あらはれて後に,始めてその存在を知るものなれば,實 修なき時は,その限りに於て結局無性に外ならざるを以て,如何に性得論者と雖も, 之を實修に條件づけたるは言ふまでもなし。たゞ永遠に無性なりといはざるの み。斯くして,兩者共に實修を必須とする點に於て一致し,唯之を實修のみに求む るか,又實修の基礎としての先天性を求むるかに於て,説を分てり。性得・修得兩派 の對立は,蓋理想に立つか,事實に立つかの相違にして,その立脚地を異にする所,次 第に二つの潮流を分てり。而して修得論者も,その實修の根據を求むるに及び,何 等かの意味に於て,先天的のものを認めずんば,その佛性説を成立するを得ざるに 至りて,<本有無漏種子>を立て,さてこの本有無漏種子なるものが,一切に具有せらる や否やに就いて,佛教教理の大問題となれるなり。小乘佛教は,佛性を認めずと いふが如き,宗派的の問題は,こゝに之を除外せん。大乘佛教よりいふ時は,小乘佛 教は,たゞ佛一人にのみ佛性を認むるも,他の一切には之を許さず。而も佛にのみ 認むる佛性も,大佛性にあらずといふは,もと菩薩佛教より羅漢佛教に對せる佛性 觀なり。この貶黜觀は,菩薩佛教に終始し,小乘佛教の終局とする阿羅漢は,寂滅に 歸して,大菩提の性なしとて,<趣寂二乘>に佛性ありや否や,<回心>し得べきや否やの大 問題を伴へりと雖も,今は佛性を廣義に解釋して,向上解脱の意味と為し,<畢竟無性> みを當面の問題として,この論議を進むる事とせん。 二 問題の所在 無佛性のものを,<一闡提>といふ。一闡提の意義に種々ありといへども,佛性論諍 の題目となれるものは,中に於て誹謗大乘のものなり。之を無性といふは,發心修 行の可能性なきが為なれば,事實上よりいへるものに外ならず。されど,斯の如き ものにも,猶理性あるを以て,他日發心修行するに至れば,有性といはるべきを以て, 一闡提思想は,佛性問題を喚起せる機縁となれるも,佛性問題は,こゝに終局せず。 一闡提たるの理由を求めて,<無漏種子>のなきに到着せる所に,問題の意義に深酷を 加へたり。蓋,有漏種子より無漏の果を起すべきなく,有漏の果は無漏種子より來 るべきなきは,理の當然なり。一闡提の如き純有漏のものに,如何にして無漏種子 の存在を許し得べきか。斯くて一分無性論者は,發心修行なき根源を究めて,之を 無漏種子の無に求めたり。一切悉有論者は,眞如理性の遍在より,之を評破すれど も,有漏と無漏との限界を嚴守する一分無性論者は,徹底して之に反對して,無漏種 子の有無によつて,一分有性・一分無性を分てり。斯る意義の無性を,<畢竟無性>又は <無性有情>といふ。無性有情こそは,佛性論諍の中心問題なり。無性有情の思想は, 誹謗大乘の一闡提に起り,而して修得思想に根據して,彼が如き發心修行なきもの は,畢竟無性なるが為と論斷せられたるものなり。この無漏種子を,眞如理性に分 ちて,<行佛性>といふ。されば,畢竟無性は,<行佛性>の上よりいはるべきものにして,眞 如理性よりせられたるにあらず。 斯の如く,問題の所在を究め來る時は,兩系の論脈は,自ら明了となる。 一,一切悉有論者は,理性の平等に立ちて,この<理性>を以て<親因>とし,この親因存す る以上は,一闡提と雖も,他日發心修行する事あるべし。之を無性といふは,唯長年 月の上よりいふのみ。發心修行の縁なきを以て,無性といふに外ならず。所謂<無 縁>の衆生にして,之を無因といふにあらず。 二,一分無性論者は,理性の平等は認むるも,理性は無為なり。發心修行の如き有 為法の因たるべからず。發心修行の有為性はこれを行佛性の本有無漏種子に求 めざるべからず。この無漏種子に,或は有るあり,或は無きあり。一闡提は,畢竟無 性なり。理性眞如は,或は所縁縁といふべく,或は増上縁といふべきも,親因といふ べからず。<親因>は,<本有種子>に求むべきを以て,無性は,無縁たるのみならず,<無因>な らざるべからず。 斯の如くして,世に無因のものありや否やが,佛性論諍の題目たり。無因とは,本 有無漏種子なきの謂なり。 「華嚴經」が,一たび三界唯心の旗幟を掲げて後,兩系の思想あり。一は法界を以て 如來藏とし,法界の萬有を悉く如來藏の表現とする思想なり。他は心外無法を提 唱して,一切悉く阿頼耶識の變現に外ならずとする思想なり。是に於て,大乘佛教 の特色は,三界唯心,萬法唯識の旗幟に集中せり。この旗幟の下に育成せられたる 思想中に,一切悉有説と一分無性説とを分てるは,不思議の觀なくんばあらず。論 理の歸着する所,悉く一切悉有説となるべき運命を有すと思はるるに關らず,中に 斷然として一分無性説を主張せるは,如何なる理由によれるか。蓋,理智冥合とい ひ,主客泯亡といひ,隨縁不變といひ,以て有為と無為との間に,有漏と無漏との間に, 法相を混交するは,理論として通徹せるものにあらずとの理由より,其間に峻別を 附せんとせる事が,佛性觀に及びしものなり。之を終局觀に持ち來す時は,佛陀は 純無漏にして,些の有漏を交へず,といふ事となる。一分無性論者の思想は,この點 に於て,性悪不斷思想と,根本的に異れりとす。 三 印度の經論に於ける佛性説 一闡提の思想は、「涅槃經」に於て,俄然として教界の大問題となれり。その起因は, 恐らくは佛教界内に於て,大乘非佛説論の起れるに激發せられたるものなるべく, 「經」は,一闡提に對する態度を,初後に於て異にせり。蓋,大乘經典中に於て,一闡提思 想の最初は,「涅槃經」なるべしと思ふ。「華嚴經」「勝鬘經」に於ても,「涅槃經」より之を見る 時は,一分無性論者の指摘する如く,一闡提といはるべきものを有するも,猶未だそ の名を與へざるなり。即ち「華嚴經」第五一の中に,如來の智慧も,無為の深坑に墮せ る二乘と,<壊善根非器>の<衆生>との二處に於て,生長し利益する能はざるをいふ。壊 善根非器の衆生とは,一闡提の内容に相當するものにして,文の當相より見る時は, 無性なるに似たり。さはれ,「經は之を一闡提と名けず。また一切に如來の智慧を 具足せしむる「經」の大精神より見る時は,たゞ發心修行の縁を缺けるを意味するの みにて,佛性の因なしといふにあらざる如し。果してその後に,然も亦彼に於て曾 て厭捨なし」の句を添ふ。これ非器の衆生も,また他日見佛聞法の縁あらんを示す ものなり。又,「勝鬘經」の中にも,三乘に並んで,<無聞非法>の<衆生>を擧ぐ。これまた一 闡提の内容に相當するものなりと雖も,「經」が未だこの名を與へざるより見れば,こ れまた聞法の縁を缺く上よりいへるものにして,而して「經」の如來藏の大思想より 見る時は,この非法の衆生も,また親因を有するものと解するを至當とすべし。而 して「涅槃經」に至りては,一方に一切衆生の悉有佛性を高潮しつゝ,他方にまた一闡 提の不成を主張せり。これ實に一闡提思想の初なり。是に於て悉有佛性と一闡 提との關係につきて,「經」には重重の問題を起し,初後に於てその思想を異にせるを 見る。即ち初は一闡提の不成を主張し,後にはその成佛を認容す。斯の如くなる を以て,「涅槃經」は,一方には一切悉有論者に對しても,他方には一分無性論者に對し ても,共にその證權とせられ,一分無性論者は,一切に悉有なる佛性は,理性に外なら ず,理性あるも行性なきは,何の功なしとして,理性と行性との間に必然の關係を附 せず。悉有論者は,行性の必然は勿論之を認むるも,理性ある時は必ず行性ありと て,兩者の間に必然の關係を認む。蓋,「經」が後に至りて一闡提を成佛せしむる以上 は,その理性を單に力用なきものとするは,當を得たりといふべからず。「經」中,示唆 に當む題句多し。或は佛性不斷といひ,或は菩提心は佛性にあらずといひ,或は正 因・縁因を共に佛性とし,或は佛と一闡提との二人に,倶にある佛性あり,共になき佛 性ありといひ,或は<一人具七・七人各一>といひ,以て後の佛性論諍に對して,無限の材 料を提供す。その三種の病者を喩として,良醫に遇ふと遇はざるとに關せず,共に 癒えずといふが如きは,明白に一闡提の不成をいふが如きも,また佛性を定有・定無 とするは,共に佛法を謗るなりといふは,特定の無性を否認するものなり。特に七 人各一は,一分無性論者に對して,有力なる材料なるも,之に並べて一人具七といふ は,一切悉有論者に對して,有力なる材料たらずんばあらず。是に於てか,「涅槃經」は, 兩系の論者に對して,共にその根據とせられ,その語句の解釋の上より,大に佛性論 を發達せしめたり。世親の「佛性論」には,小乘分別部は性得佛性の上に立ちて,之を 一切に悉有なりとし,有部は修得佛性の上に立ちて,これを定有・不定・定無の三種に 分ち,一闡提を�<定無佛性>とせりと傳ふ。分別部・有部の對立は,「涅槃經」の前なりや後 なりやを明にせずと雖も,一闡提を無性とするも,有性とするも共に「經」の中に含有 せらるる思想にして,而して「經」はいづれにも解釋せられ得る餘裕あるより見れば, 恐らくはこの判然たる對立は,「經」の後ならんかと思はる。いづれにせよ,「涅槃經」と 二部の對立とは,多くの年月を隔てしものにあらざるべく,「經」の佛性思想は,有部的 より分別部的に進めるものと見るを得べし。一闡提思想が,「涅槃經」に來つて勃興 せりと見る限りに於ては,「經」と二部との關係を斯く見るを正當とせん。 「瑜伽論」に來つて,<種>に<本性住>と<習所成>との二種を分ちて,種の上より有性・無性を 分つと同時に,他方にまた<眞如種子>をいふ。その本性住種及び習所成種は,「涅槃經」 の正因及び縁因に當るべく,その有種姓・無種姓は,「涅槃經」の有佛性と一闡提とに當 るべし。「瑜伽」が無種姓の内容を解剖するに當りて,すべて事實の上に基づくに徴 する時は,その無種姓といふは,主として習所成種の上よりいふものなれども,また 無種姓のものは,一切一切一切種ありと雖も,決定して菩提を證せずといふが如き 語句あるに徴する時は,本性住種を有せざる意とも見らる。斯くて「瑜伽」の無性は, 甚深の研究を要するものあり。況んや他方に眞如種子の語句あるをや。予は「論」 を以て,兩様に解釋し得べき餘裕あるものと思惟す。然らずんば,その後に「攝論」の 解性阿黎耶の思想,「佛性論」の佛性事能思想の起れる理由を解釋するを得ざるなり。 「顯揚論」に於ては,<有性>・<無性>の二種を分ち,「荘嚴論」に於ては,<無性>の中に<時邊>と<畢竟> との二種を分つ。是に至りて,畢竟無性の意義明了なるを來せり。畢竟無性とは 無因の義なり。 「楞伽經」の中には,明白に<五性>を分ち,中に無性の一闡提に二種を分つも,共に作佛 すべきをいふを以て,この無性は,名は無性なれども,畢竟は有性のみ。この五性悉 く有性の思想は,必ずや五性各別思想の後を承けて,如來藏の上に立ちて之を悉有 たらしめしものならん。その後「唯識論」を經て,「佛地論」に至りて,五性を以て本有の 差別とし,眞如を佛性とするを方便とし,一切悉有の一切は<少分>の<一切>なりといふ 新説を出し以て五性各別説を徹底せしめたり。是に至りて,五性は,<本有>の<種子>の 差別に因る事となれり。 以上の叙述甚だ簡略に過ぎて,意を盡し難く,従つて意味の不明なるものあれど も,印度の經論に關する叙述は,之に止むる事とす。以上の記述を要略すれば,「華嚴」 「勝曼」の兩經に於ては,無性の豫備思想あれども,猶未だ判然たる無性の思想なし。 「涅槃經」に來りて,無性の思想あらはれたれども,また同經中に於てこれを有性とす るものあるを以て,その佛性觀は當然研究の題目となり,この研究が主として佛性 論を發達せしめたり。「涅槃經」と前後せりと想はるゝ小乘有部は,分別部の悉有性 得思想に對して,明白に修得有無思想を有せり。「瑜伽論」は二部の思想を併有せる ものゝ如く,一方に無種姓を立つると同時に,他方に眞如種子をいひ,一分無性論者 の見る如きものにあらざるが如く,若し兩思想を併有すとせば,その中の有性の方 面を繼承せるものは,「佛性論」「寶性論」「楞伽經」「起信論」等にして,その無性の方面を繼承 せるものは,「顯揚」「荘嚴」「唯識」「佛地」の諸論となれりと見るを得べし。もと是佛教の根 本義に關し,而も人性の機微に觸れたる大問題なるを以て,之が有無を斷ずる事容 易にあらず。若し之を有とせば,如何なる意義に於てすべきか,若又之を無とせば, 如何なる意義に於てすべきか。以上の經論は,悉くその説相を異にし,必ずしもそ の内容意義を同じくするものにあらざるを以て,一々の經論につきて,一貫の思想 を案じ,その思想の上より有性・無性の個處を,悉く精細に検討し來らざれば,その主 張を判明し難しと雖も,大體より見る時は,以上の如き系統を為すものと信ず。以 上の經論は,佛性論者の常に材料とする所なれば,順序上,之に關説せるに過ぎず。 悉有思想を説ける主要なるものに,「不増不減」「無上依」の兩經の如き重要なるものあ れども,佛性論諍に於て,特に注目せらるべきものは,寧,畢竟無性を説ける經論なり とす。 四 支那の佛性論諍,道生及び慈恩 支那に於ける佛性論諍は,「涅槃經」の傳譯と共に起れり。法顯三藏が印度より將 來せる「涅槃經」を譯出するや,部分譯なるにも關らず,その悉有佛性の大宣言が,甚し く思想界を動かして,天才道生をして<闡提成佛>の創説あらしめたり。闡提成佛の 思想は,「經」の後部に説かるゝも,法顯の譯出は,闡提不成の思想を有する初部のみ。 「經」の根本義より判じて,この初部の中より,闡提成佛の思想を引き出し來れるは,修 道に裏づけられたる論理の力なりとす。時に反對の意見多くして,為に道生は教 界より擯斥せられたり。これ實に支那に於ける佛性問題の最初なり。道生は此 の時に擯斥せられたりと雖も,やがて「經」の全部が傳來するに至りて,その思想の正 當なるが一般に認識せられ,佛教者に活氣を與へたる事甚大なりき。其後六朝の 間,佛性を何に求むべきかにつきて,異説紛々として決せず。或は衆生とし,或は六 法とし,或は心とし,或は眞神とし,或は阿黎耶識とし,或は眞諦とし,或は第一義空と する等の異説ありと雖も,多く「涅槃經」に據れるものなり。以て「涅槃經」と佛性との 關係を知るべし。斯くて隋代に至り,浄影・天台・嘉祥の如き三大碩學あり。浄影は <理>と<心>とに之を求め,天台は<三因>を佛性とし,嘉祥は<五種>の<佛性>を立てしが,また皆 「涅槃經」にその根據を求めたるなり。斯の如く,その佛性義に於て,種々の異説あり しと雖も,一乘佛教の上に立ちて,一性皆成を主張するに至りては,その轍を一にし, その點に於て,古來説を分つなし。然るに玄奨三藏が十七年間の印度遊學より歸 朝して,唯識の教義を傳譯するや,こゝに<一分無性説>なる新思想,初めて教界の表面 にあらはれ,この後一性と五性との間に,一切悉有と,一分無性との間に,深酷なる問 題を惹起し,爾來年と共にその深度を加へ,以て今日に及べり。 玄奨の傳譯に基づきて,一分無性説を理論的に主張せるものを,慈恩大師大乘基 と為す。慈恩は,一闡提に三種を分ち,斷善闡提及び大悲闡提の外に,<畢竟無性>の闡 提あり,斷善闡提は,因不成なれども果成なり,大悲闡提は,果不成なれども因成なり。 共に結局有性なれども,畢竟無性に至りては,因も果も共に不成なりといひ,またそ の因なるものは,悉有の理性にあらず,有無不定の<行性>なりといひ,更にまた「涅槃經」 の一切悉有の一切は,<少分>の<一切>なりといへり。支那に於て,少分一切,行佛性,畢竟 無性を明白に主張せるは,慈恩なる事を牢記するを要す。この思想は,一般佛教よ り見る時は,やゝ奇なるに似たれども,唯識學より見る時は,素より當然のものたら ずんばあらず。此思想のよりて起れる所以を究むるに,之を行性に求めたるは,た とへ平等の理性ありとも,實修にして伴はずんば,その甲斐なきが為なり。既に實 修の上より,有性・無性を分てる以上は,その佛性を一切悉有ならしむるを得ず。是 に於てか,「涅槃經」の一切衆生悉有佛性の一切を以て,少分の一切と解せるなり。少 分の一切とは,全分の一切に對するものにして,唯大多數について一切といふに過 ぎずといふなり。元來,唯識學よりする時は,種子は有為法のものにして,絶えず生 滅變化するを以て,無為法の眞如を以て,種子たらしむるを得ざる事となる。行法 を種子とする論理的基礎,こゝにあり。斯くて,唯識學よりする時は,行性説は當然 にして,隨つて少分一切説を生ずるなり。實修を必須とするに於ては,唯識家と正 反對に立つ一乘家に於ても,また同種なれども,たゞ理性と行性との關係に於て,唯 識學とその解釋を異にするを以て,一乘家に於ては,少分一切説を取らずして,理性 平等の上より,一切悉有を主張するなり。 五 霊潤對神泰,法寶對慧沼 玄奨の新譯經論出るや,之に對して,二個の反對説あらはれたり。一は霊潤なり。 他は法寶なり。共に「涅槃經」の研究者なりき。霊潤は,新譯が舊譯の經論の思想に 異なる十四個條を擧げて,之を批評し,學界が新説に向つて走るの輕擧を遺憾とし, <眞如佛性>説を主張して,行性説を排し,隨つて一分無性のあるべき理由なきを唱へ て,以て少分一切説を否定し,「涅槃經」に牆壁瓦石を非佛性といへるは,一切の人間に 平等の佛性を認めたるを證するものなりとせり。これ,慈恩と霊潤と,佛教學の立 場の異る所より起れる自然の成り行きにして,慈恩は,「涅槃經」を見るに,「瑜伽論」や「荘 嚴論」や「唯識論」や「佛地論」よりし,霊潤は之に反して「佛性論」や「寶性論」や「起信論」よりせ り。慈恩が行性に立てるに反して,霊潤が理性に立てるは,元來慈恩と霊潤との間 には,眞如の意義を異にせるによる。二人の相違は,遡りて,やがて新譯「唯識論」と舊 譯「起信論」との間の眞如觀の相違なり。「唯識論」に於ては,生滅變化の中に眞如を持 ち來すを絶對に許さゞれども,「起信論」に於ては,眞如に不變と隨縁との二つの意義 ありとす。この立場の相違は,すべての方面に相違を來す事となれるなり。 法寶も,縁因たる行性には,その不同を認むれども,行性以上の平等法を以て正因 とし,而して平等の正因として,<理>と<心>との二つを立て,中に於て終局は理を以て正 因とし,進んで敵者の根據とする「瑜伽論」に立ち入つて,その<眞如所縁縁種子>といふ に關して,印度の護法・護月二大論師の解釋までを批評して,以て獨自の見解を主張 せり。この後,この眞如所縁縁種子なるものが,佛性論諍の中心題目の一となれり。 之が解釋に,兩種あり。唯識家は,之を以て眞如を所縁々とする無漏智なりとし,法 寶以下は,眞如を直に種子とせり。同一の「論」の同一の文を根據としながら,之が解 釋によつて,一は唯識學者の主張を助け,他は一切悉有説の主張を保證するに至る。 この事は,「瑜伽論」の意味如何といふよりも,之に對する學者の思想如何の問題にし て,眞如を佛性とするものに取つては,敵者の根據とする「瑜伽論」に,眞如所縁縁種子 の文字あるは,この上なき材料といふべく,それだけ唯識學者には,苦痛の存する所 なりき。當時の學者が,獨自の識見を立て,印度の二大論師の説に對してすら,堂々 の批評を加へたる態度は,他に多くの比を見ざる所,唐の時代に佛教學の建設あり しも,その所なりといふべし。霊潤が,平等の正因とせる理・心の中の心とは,阿黎耶 識なり。この阿黎耶識は,「唯識論」のそれにあらずして,「攝論」「起信論」の解性又は本覺 を内含し,如來藏と不一不二のものたり。兩系の眞如觀異ると同時に,阿黎耶識觀 の異るも,素より其所なり。 是の如く,霊潤は,新説を批評するのみならず,併せて新譯の經論に對する不信用 の意見を發表し,法寶は,新譯の思想より,遡りて印度の二大論師の説をも反駁せり。 唯識學者何ぞ之を黙止するを得んや。すなはち神泰は霊潤に對し,慧沼は法寶に 對せり。神[日方]も亦唯識學の立揚より論ずる所ありしが,惜むべし,その論草は傳は らず。神泰が,一々霊潤の説を反駁せる中に於て,<行性>を以て本識中の<大乘種子>と 為せるは,眞如種子説に對して,一歩唯識學の立揚を明白ならしめたるものといふ べし。是に於て問題は,次第に理論的となれり。法寶が,平等の理の外に,平等の心 を以て,直に種子とせるに反して,神泰が,心の中の種子に佛性を求めたるは,一は<心 性>に求めたるなり。他は<心種>に求めたるなり。是に於て佛性説は,之を性に求む るか,種に求むるかの對立となれり。斯く分解し來る時は,元來,眞如を種子といふ は,語それ自身の中に矛盾あり。同時に種子を佛性といふは,語それ自身の間に不 調和あり。若,適當に之をいふ時は,成佛の因を佛性に求むるか,種子に求むるかの 問題となる。印度の經論に,性を或は種と呼べるものあれども,そは唯識説に立つ が為にして,反對に種を佛性と呼べるものなきが如し。この性と種との對立は,や がて「瑜伽論」の本性住種に立つか,習所成種に立つかの問題なり。「瑜伽論」の異譯「善 戒經」の本性に立つか,客性に立つかの問題なり。「瑜伽論」は共に種と呼び,「善戒經」は 共に性と呼ぶも,嚴密に之を區別する時は,本性及び習種と為すを以て,適當とす。 慧沼は,唯識學の第二祖とせらるゝ學者なれば,法寶に對せるその反駁は,理義頗 る整然たり。曰く,眞如を種子とせば,四種の過に陥る。行佛性とは,本識中に含ま れたる<本有無漏種子>なりとて,行性としての種子を委細に解剖していふ,行性種子 に有漏と無漏とあり。一切衆生にありては,有漏は,種子としては悉有なれども,現 行としては成と不とあり。無漏は,現行としては不成なれども,種子としては成と 不とあり。その有性といひ,無性といふは,この無漏種子の有無不定よりいふなり と。是に於て,本有無漏種子説あり。本有は,法爾自然のものにして,後天的の實修 にあらず。吾人の阿頼耶識中に,この無漏種子の有ると無きとありて,先天的に有 性・無性決定せらる。而して有漏と無漏との關係には,嚴格なる法則あつて,有漏が 無漏たるべき理由なく,同時に無漏が有漏たるべき理由なし。一切衆生の佛性は, この無漏種子の有無に條件つけられて,永遠にその法則を紊ることなく,無種子の ものは,永遠に成佛することなし。これ畢竟無性なりといふなり。是に至りて,佛 性問題は,一層明了となれり。一切悉有に立つものは,眞如又は阿黎耶識に,一切成 佛の保證を求め,一分無性に立つものは,本有無漏種子の有無によつて,有性・無性を 分てり。これに由りて,其後の論諍の中心題目は,眞如と本有無漏種子との對立と なり,互にその論鋒をこれに集中せしめたり。 六 法藏の綜合説 是の如く,一性説と五性説,又は一切悉有説と一分無性説との間に於て,論鋒は次 第に微細に入り,問題の所在次第に明白となれり。この後を承けたるものは,賢首 大師法藏にして,法藏は一層高き地位に立ちて,之を統一するに於て,先づ成功せり といふべし。法藏のは,一性説,悉有説,なるを以て,その論理に於て,霊潤及び法寶と 共通するものあれども然れども五性説に對する態度異る。法藏は,五性説を以て 始教とし,一性説を以て終教とし,その上の頓教によつて,兩者の思想を一旦掃蕩し 去り,更にその上の圓教中に,兩者を統攝し,以て各々圓教の一面を表はすものとせ り。普通の立揚に於て之を見る時は,始教の五性説と,終教の一性説との間には,到 底一致すべからず,兩立すべからざるものあれども,法藏は,兩説を以て,共に眞如の 一面をあらはすに過ぎずとして,是等兩系の思想を併立せしめたり。そは横列の 五性を,縦列の五性たらしめ,五性を以て<種>の相違とせずして,<位>の相違とし,以て一 人の上の五性とせるにあり。是に於て五性の成立すると同時に,一性も亦成立す るを得たり。賢首の根本原理は,終教と同じく眞如如來藏なれども,之が活用に於 て異る。同じく眞如如來藏なりと雖も,無明の位に源けば無明となり,明の位に置 けば明となる。一闡提位に置けば無性となり,菩薩位に置けば有性となる。無明 と明,有性と無性は,一如來藏の位置の相違に外ならず。その眞如を種性とし,理行 の二性を<縁起不二>のものとし,而して<轉為>によつて,無性を有性たらしめたるは,其 意味はよし霊潤・法寶にありとするも,これを鮮明ならしめたるは,法藏なり。法藏 に於て注意せらるべきは,理行二性を<縁起不二>とせる點,五性を以て<位>の差とせる 點,隨つて<轉為>によつて無性を有性たらしめる點にあり。中に於て,特に重要なる は,五性を位の差とせるにあり。斯くて法藏に來りて,佛性論諍は,その到達すべき 極地に到達せりといふべし。 七 日本の佛性論諍,傳教對徳一 日本に於ける佛性論諍は,天台宗の傳教と唯識宗の徳一との間に,始にして又終 ともいふべき高潮に達し,其後,三論宗の玄叡及び宗法師あり,天台宗の慧心あり,下 りて鎌倉時代の華嚴宗親圓あり,猶下りて徳川時代の唯識宗基辨あり。基辨の佛 性觀は,折衷説に立つ點に於て,特色を見るも,蓋,論諍の妙味は,始にして又終といふ べき最初のものに如かず。傳教と徳一との論諍は,三國佛性論諍の最高潮なり。 既に印度に於て相當の成績を呈し,支那に於て問題が明了となれる後なるを以て, 兩者の論諍には,微を極め細を穿ち,益々兩系の相違點の明了となれるを見る。兩者 の間には,四年に亘り,四回の論難往復ありしも,惜しむべきは,徳一の論草の全く散逸 せるにあり。たゞ傳教の著述を通して,その議論を見る外なし。この論諍の起り は,傳教が「通六九證破比量文」を著はして,慈恩の「樞要」の説を評破せるに初まり,徳一 が「佛性妙」を撰して,之に答へたるにあり。 傳教は,唯識家のものが,理性のみにては不成なり,行性を具して初めて成す。行 性とは本有無漏種子にして,「瑜伽論」の本性住種これなりといふに對して,この本性 住種を以て,<眞如>或は<本識>とし,「瑜伽論」の<眞如所縁縁種子>を以て保證とし,種子より する五性の差別に對して,<位>の相違と為し,以て永遠の差別を否定し,一時的無性よ り永遠の有性への<轉成>を以て,<新薫>によると為せり。之を前掲の論諍に顧る時は, 本性を以て眞如或は本識とし,又眞如所縁縁種子を保證とするは,法寶の思想なり。 行性に反對せるは,霊潤の思想なり。五性を以て種子の差別とせずして,これを位 の相違とし,及び新薫によりて無種より有種への轉成ありとするは,法藏の思想な り。傳教は,斯の如く支那の諸家の説を綜合して,以て自家の佛性説を組織し,堂々 として力ある論理を辿りて,唯識家の論陣を粉碎せずんば止まざる勢を以て,獅子 吼し,之に對して,徳一は,また天台大師の「法華玄義」を逐次的に批評し,印度支那の唯 識家の佛性説を綜合して,鋭利なる論歩を以て,之に對抗せり。兩者の諍論は,頗る 微細の點に至るまで,之を洩さゞるの觀ありと雖も,その要領は,前掲の中に盡く。 中に於て,兩者の論議の中心となれるものは,印度以來の眞如所縁縁種子にして,而 してその分折に於て,三國中第一に位するものあり。 八 性宗と種宗 一乘一性思想は,涅槃・天台・三論・華嚴の諸宗に共通するを以て,之を總括して,一乘 家とし,之に對する唯識宗を以つて,三乘家とし,以つて前來の所説を,こゝに要約す る時は,次の如き對立を為すを見る。 一乘家は<一性説>なり,三乘家は<五性説>なり。隨つて一乘家は<悉有佛性説>なり,三 乘家は<一分無性>説なり。是に於て,「涅槃經」の一切衆生,悉有佛性の一切を以て,一乘 家は<全分一切>とし,三乘家は<少分一切>とす。佛性を以て,一乘家は理及び心とし,而 も,結局は<理性>に求め,三乘家は<行性>に求む。一乘家の理性とは<眞如>なり。三乘家 の行性とは<本有無漏種子>なり。而して無性有情を以て,一乘家は,<位>についていふ ものとし,三乘家は<種子>なきについていふものとす。一乘家が位についていふと は,正因たる眞如理性を開發せしむる縁因なきが為とするなり。三乘家が種子な きについていふとは,永遠に向上の正因なきが為とするなり。即ち約位と約種と の對立,<無縁>と<無因>との對立なり。即ち五性差別の原因を,一乘は<新薫>に求めたる なり,三乘家は<本有>に求めたるなり。兩家の眞如觀は,一乘家は之を<因縁>とし,三乘 家は<所縁縁>とす。斯の如くにして,佛性觀に於ける兩家の對立は,之を一言に要す るに,<性>に立つか,<種>に立つかの相違に歸す。佛性論より見る時は,便宜上,一は<性宗> なり,他は<種宗>なりといふべし。一乘家が眞如を種子といふも,もとこれ種宗の名 稱を承けたものなれども,元來語それ自身の中に矛盾を含むを以て,今後の佛性論 に於ては,この名稱を用ひざるを可とすべく,同時に三乘家が,行を以て佛性とし, 佛性の稱を用ふるは,もとこれ性宗の影響を受けたるものにして,語それ自身の中 に不調相あるを以て,今後の佛性論に於ては,之を用ひざるを可とすべし。況んや 本有無漏種子を行佛性と名くるが如きは,用語それ自身の中に問題を含む。佛性 論諍の彼が如く激甚なりし一因は,用語の不精密より來れり。 性宗たる一乘家の佛性は,先天的理性説に立ら,一時的無性が有性への轉成に,新 薫をいふも,この新薫は眞如の力用なるを以て,終局佛性を先天性に求むといふべ し。種宗たる三乘家の佛性は,後天的經驗説に出發して,最後に本有無漏種子に歸 着せりと雖も,この種子も行性と名けらるゝ以上は,往昔の熏力なりしを示す。さ はれ,本有は無始なり。三乘家に對して,本有無漏種子の起原を求むるは,恰も一乘 家に對して,無始無明の起點を求むるに同じ。一乘家は,眞如を歸趣とし,また根本 とするを以て,無明の起原に難點を有し,三乘家は,有漏の阿頼耶識を以て終局とし また根原とするを以て,無漏の起原に難點を有す。方向は異なれりと雖も,兩者に 共通する,經似の難點ありといふべく,敢て一方をのみ責むべきにあらず。互に長 短を併有すといふべきなり。 九 兩宗の同異長短 一乘一性の思想は,殆んど日本佛教界の通説にして,殊に今日,三乘五性の思想に 立つものなく,その無性有情の思想の如きは,頗る人心を惹かざるに似たりと雖も, 自己の本質を以て有漏とする中に,深酷なる内觀あり。且つ有漏と無漏との關係 に於て,嚴然たる區劃を守る中に,理論として通徹せるものあり。多少之に修正を 加ふる時は,之を今日に施して亳も不可なるを見ざるに似たり。 是に至りて,更に猶一應,兩宗の共通點と,差違點とを見,次にその長短を比較する 時は,左の如きものあり。 兩宗に共通の點 一,眞如の<理性>が,一切に<遍通>するを認むる點に於て,兩宗は共通す。即ち「涅槃經」 の一切衆生,悉有佛性を,性宗が認むるのみならず,種宗も亦認む。この佛性は,即ち 理性なり。 二,實修の<縁因>を<必須>とすることに於て,兩宗また共通す。性宗に於て,極力眞如 を主張するも,若,實修を缺く時は,眞如は空名のみ。實修なきに於ては,理論上より は一性皆成といふも,實際上にては無性に同じきなり。種宗に於て實修を必須と するは,いふまでもなし。先天的の無漏種子をも,理性に區別して,行性と為すは,語 それ自身の中に實修を豫想するものあり。斯の如くして,兩宗共に眞如の遍通を 認め,而して實修を必須とする點に於て,共通すといふべし。 兩宗の差異點 一,實修の基礙を,眞如に求むるか,<無漏種子>に求むるかは,兩宗の相違の一なり。 之を遍在の眞如に求むる時は,一性説となり,之を無漏種子に求むる時は,五性説と なる。 二,そのこゝに至れるは,兩宗の<眞如觀>が異り,隨つて<阿黎耶識觀>が異るによる。 性宗は,眞如を以て,不變・隨縁の兩義を有すとし,隨つて阿黎耶識を以て,覺・不覺の兩 義を有すとし,眞如と阿黎耶識とを不一不異の關係に於て見る。種宗は之に反し て,眞如を以て無為・無漏とし,阿頼耶論を以て有為・有漏とし,兩者の性質相容れずと して,その間に截然たる區別を附す。斯くして,眞如と阿黎耶識との關係に於て,之 を一元的に見るか,二元的に見るかの相違あり。これ眞如の本質に關する問題に して,眞如の本質の相違は,やがて理性と行性との關係に於ける相違を來す。 三,有漏と無漏との間に<轉成>を許すか否かに於て,兩宗間に相違あり。性宗に於 ては,之を許すを以て,有漏の阿黎耶識は,一轉して無漏の阿摩羅識たるべきものと 為す。種宗にては,有漏の種子が無漏たるべきを許さず,無漏種子が有漏たるべき を許さず。無漏種子の力によりて,有漏種子を斷滅して後,初めて阿頼耶識を浄め て,大圓鏡智たらしむるを得べしとて,こゝに轉識得智をいふも,この轉は性宗の轉 と,その意義を異にす。性宗のは,有漏種子が,轉じて無漏種子となるなり。或は有 漏種子より無漏の結果を生ずるなり。種宗のは然らず,無漏種子の力によりて,有 漏種子を斷滅し終つて,阿頼耶識が浄めらるゝを轉識とするなり。されば無漏種 子なきものは,如何するも無漏の結果を生ずることなきなり。されば,有漏種子に 關して,兩宗の間に<轉>と<捨>との相違ありといふべし。 四,是に於て,その終局觀に於て相違を來す。性宗は,<理智>の<冥合>を以て終局とし 種宗は<正智>と<如々>とを永遠に對立せしむ。性宗の阿摩羅識なるものは,有漏識が 一轉して,理智の合一せるものなり。種宗の如々は,常に正智の境にして,智と境と は合一せらるべきにあらず。 長短 性宗は,眞如に隨縁を認め,隨つて阿黎耶識に覺の義あるを認め,以て理想と現實 との間に,<相即>の自由あらしむ。これその最も長所とする所なり。されど無明の 起原及び眞如と無明との關係に至りては,結局<不思議>といふに歸するを免れず。 無明を以て無始とし,無明が眞如に影響するを不思議熏とし,不變の眞如が隨縁す るを不思議變とするは,結局不明といふに外ならず。こゝにその弱點ありといふ べし。 種宗は,この弱點より脱せんが為に,有為と無為との間に,有漏と無漏との間に,劃 然たる<分別>を附し,無為の眞如を,有為の世界に持ち來さず,現象世界の説明を,阿頼 耶識の範圍に止むるは,理論として通徹する所あり。されど無漏の原因を求むる に至りて,頗る因難なる位置に立ち,有漏の阿頼耶識と無漏種子とは,其性質上相容 れざるが為に,無漏種子を以て,識に<依附>して存在すといふ。これその最も弱點と する所なり。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 以上,兩系の思想の差違と長短とを對照し來れり。然らば,今後の佛性説を如何 に建設すべきか。之に關して,最後の結論に至りて,管見を述ぶる事とせん。 --------------------------------------------------------------------------- 注) 原文は縦書き 原文の一行を一行で表し、改ページは空行に変更 <~~> は原文では右に○をつけて強調している用語 [~~] は原文では一文字の漢字 《インド》 「大般涅槃經」曇無讖(Dharmaraksa)漢訳(前半部は417年法顕漢訳「大般泥シ亘經」にあり) ・ 「華嚴經」佛陀跋陀羅(Buddhabhadra 359~429)漢訳「六十華嚴經」 「勝鬘經」436頃求那跋陀羅(Gunabhadra)漢訳「勝鬘獅子吼一乘大方便方廣經」 ・ 「楞伽經」443 求那跋陀羅(Gunabhadra)漢訳「楞伽阿跋多羅寶經」 ・ Maitreya ? ~ ? 「瑜伽師地論」 (チベットでは Asanga の著作とする) Asanga 400 ~ 470 「攝大乘論」「顯揚聖教論」「荘嚴論」 ・ ・ (別説 310 ~ 390) Vasubandhu 400 ~ 470 「唯識二十論」「唯識三十頌」 (「佛性論」?) (別説 320 ~ 400) 《中国》 竺道生 ? ~ 434 浄影 ? ~ ? 真諦 499 ~ 569 「起信論」漢訳 天台大師智[豈頁] 538 ~ 597 嘉祥大師吉藏 549 ~ 623 玄奘三藏 602 ~ 664 霊潤 ? ~ ? 神泰 ? ~ ? 慈恩大師窺基 632 ~ 682 義浄 635 ~ 713 法寶 ? ~ ? 賢首大師法藏 643 ~ 712 慧沼 650 ~ 714 《日本》 傳教大師最澄 767 ~ 822 弘法大師空海 774 ~ 835 徳一 781? ~ 842? 玄叡 ? ~ 840 宗法師 ? ~ ? 慧心僧都源信 942 ~ 1017 親圓 ? ~ ? 基辨 1722 ~ 1791 常盤大定 1870 ~ 1945