まえおき/ 参考文献/ 文献の矛盾/ 年初/ 皇帝の呼び方/ 当て字
1.使用した文献及びその精度 (1) まえおき いろいろな文献の価値を評価するには研究史(*)に関する理解が必要になり ますが、私にはそれだけの知識がありません。以下の解説をお読みの上、精 度及び適用限界を確認してご使用ください。 (*) when.doc 文献[92]を読むと、when.doc 文献[91]はもっと評価されて良 い気がします。when.doc 文献[89]の著者のひとりである川原秀城氏にいただ いた文献[91]の序文のコピーから、汪氏の母上であられる趙儀[女吉]さんの ことば(咸豊5年(1855)9月29日付)を引用しておきます。 (前略)兒子曰[木貞]性好學史又喜習算嘗有志於此[彳扁]攷當時行用之本術 如法推歩得其朔閏凡仲更(**)所推悉為算校正其譌補其缺并續推宋以後之長 術又取二十四史所載月日一一稽其合否證以羣書略加攷辯其布算検閲始於丙 申之夏期以二十載之功畢成全史(中略)他日書成弁以序文可乎余笑而頷之迄 今忽忽已閲二十年(中略)而擧業間之人事又擾之有萬萬不能速成之勢余衰年 久病恐不及待其成故預為此序(後略) (**)劉羲叟 資治通鑑のための暦日計算をした人物 (2) 参考文献について 文献[1] 方詩銘・方小芬編著 中国史暦日和中西暦日対照表 上海辞書出版社 V1.XからV2.Xへのバージョンアップのきっかけになった文献です。一応紀 元前1384年から2000年までの暦日が記載されていますが、各時代の精度につ いては明記されていません(この文献に限らず、中国で出版されている暦日 対照表では計算方法とか根拠が示されることがほとんど無いようです)。た だ、1987年の刊行でそれ以前の研究は参照され、異同がコメントされていま すので、原則として本文献に準拠して朔閏表データを作成しました。 漢代以降についてみると、五胡十六国、南北朝時代の後梁及び五代十国時 代の十国の暦日が欠けています。従って残念ながら仮に、後秦と北涼を除く 十六国は東晋と同じく景初暦、十国は五代と同じく崇元暦・調元暦及び欽天 暦であるとしています。十六国のうち後秦は三紀暦、北涼は玄始暦ですが、 これらについては別途計算によって暦日を求めました。また新五代史によれ ば十国のうち、南唐は斉政暦、前蜀は永昌暦及び正象暦ですが暦法の詳細は 残されていないとのことです。その他、南北朝時代の後梁の暦法は大明暦で あるものと仮定、台湾の鄭氏政権の朔閏は時憲暦によっています(後者は本 来は授時暦であるはずですが残念ながら資料を読む語学力がありません)。 最後に、四分暦の時代について本プログラムでの計算と比較した(when??. rsc のコメント参照)本文献の問題点を列挙しておきます。 前漢センギョク()暦 176BC1月朔の日付が異なる。一貫して冬至を11月に固定する置閏法 である。 殷暦推算表(別表漢代の部) 本来の殷暦に較べて冬至の日付を1日早くしないと置閏が合わない。 それでも、なお 162BC・105BC の置閏が合わない。 秦暦日表 本来の殷暦がそのまま用いられている。 戦国暦日表 whenhv.rsc に示したパラメータで、置閏は487BC閏3月まで、朔の日付は 503BC1月まで遡って適用可能(閏月は1月早くなる)。6種の四分暦と は何れも一致しない。グレゴリオ暦503BC2月18日庚午(センギョク暦で用い られた干支である己巳の翌日)正子を朔でかつ立春とする。 文献[2] 中国社会科学院 中国古代天文文物論集 文物出版社 考古学研究所編 四分暦に関して、いくつかの論文が掲載されています。本プログラムの四 分暦は本文献をもとに作成しました。この文献にも秦・漢代の暦日表があり ますが、閏月の挿入位置は文献[1]と一部異なっています。太初改暦以前の中 国暦日としてこちら(陳久金・陳美東論文)を採用しました。 本文献には漢代の敦煌の暦法も取り上げられていますが、プログラムには 反映されていません。世の中では漢代の史料と計算の突き合わせが行われて おり、特に後漢四分暦の時代はかなりずれているようです。日本における 『日本暦日原典』のようなまとまったものはまだないのでしょうか。 文献[3] 薮内清 増補改訂中国の天文暦法 平凡社 1990年末に増補改訂版が出版されました。 文献[4] 三省堂編修所編 コンサイス世界年表 三省堂 五胡十六国及び五代十国時代の十国の興亡及び皇帝の在位の情報を本資料 から得ることができます。興亡については「月」の分解能で判りますが、皇 帝の在位及び年号については内乱等が本文に記載されている場合を除いて 「年」の分解能しかありません。 文献[5] 小林信明編 新選漢和辞典 小学館 巻末付録の中国学芸年表に五胡十六国及び五代十国時代の十国を含めたほ ぼ全ての年号が記載されています(後蜀のみを除く)。残念ながら「年」の 分解能しかありません。十国等のうち本プログラムで表示されないものは、 他の国の年号を使用していました。南唐の保大年号を使ったもの(楚950-951 年)、五代の年号を使ったもの(その他)等です。 文献[6] 司馬遷 史記 中華書局 班固 漢書 〃 陳寿 三國志 〃 范曄 後漢書 〃 房玄齢・李淳風 晋書 〃 欧陽修 新五代史 〃 司馬光 資治通鑑 宏業書局 畢シ元 続資治通鑑 〃 李兆洛 歴代紀元編 台湾中華書局 楊家駱 中國天文暦法史料 鼎文書局 陳舜臣 中国の歴史(六) 講談社文庫 年号に関しては、より詳しい情報としてこれらの文献を参照しました。こ れらにより、改元の日付及び小軍閥に関して、非常に詳細な情報を入手する ことができました。 それでもなお日本暦日と違って改元の日付が「日」の分解能では判らない ものが多々あります。この様な場合、警告メッセージを出して、その月の1 日に改元されたものとして表示するようにしました(禅譲で王朝が交替した 場合も同様)。並立する他王朝に滅ぼされた場合は、滅亡した月の末日まで その王朝の年号を表示するようにしました。 並立する他王朝に滅ぼされた王朝の滅亡の日付は年号に「滅亡」と指定す ることによって確認できます。 (3) 文献の間の矛盾 プログラム作成中に気づいた文献間の矛盾について列挙します。 ・文献[1]と[2]では秦・漢初の暦日が異なる。 文献[2]の[1]に対する相違を以下に列挙します(文献[2]の方は複数の論文 からなりますが、以下の記述はそれらを私なりに整理したものです。張論 文は陳論文に較べて月の位相が17/940日遅れています(日経mixのmassange さん(PC-VANの SIG ORIENT では massangeana さん)の御指摘による)が、 本プログラムは 陳論文の方に従っています)。 【中国統一以前の秦】 始皇帝9年に改暦があり、センギョク暦を採用し年初(歳首)を1月とした。 閏月は12月の後に挿入した。 【中国統一以後の秦】 センギョク暦を使用し年初(歳首)を10月とした。閏月は9月の後に挿入した。 【162BC以前の漢】 176BC1月朔の日付は本プログラムの計算値と一致する。 【162BC以後太初元年4月までの漢】 秦の暦法を、固定する中気を変更して使用した。雨水を1月に固定する置 閏法である。 ・周の神功、聖暦年号の元年が文献[1]と文献[4]で1年食い違う。文献[1]が 正しい様に思われる。 ・西遼の皇帝・皇后の在位が文献[4]と文献[6]歴代紀元編で全く異なる。 (文献[4]には「遼史に従う」と他にはないコメントがあり資料の混乱が推 定される) ^^^^^^^^^^ ・三藩の乱関係の日付が文献[4]、文献[6]歴代紀元編、中国の歴史(六)で食 い違う。 ・文献[1]及び[6]同士で互いに矛盾しているものが多い(気づいたものを下記 に示す)。プログラム作成上文献[1]を最優先とし、文献[6]間では資治通鑑 を優先する(以下はすべて改元または滅亡の日付)。ただし三國呉の赤烏改 元は、三國志では8月、資治通鑑では9月となっていますが、この時代の魏は 建丑月を年初としており、赤烏元年8月=景初2年9月ですので、本プログラム の原則(建寅月年初)により8月改元としました(暦研究家の西沢利男氏の ご指摘による)。 105年 元興 (全資料) 4月庚午はない 189年 中平 (全資料) 12月戊戌はない 220年 黄初 (三國志) 10月庚午 (資治通鑑) 10月辛未 238年 赤烏 (三國志) 8月 (資治通鑑) 9月 254年 正元 (三國志) 10月己丑 (資治通鑑) 10月癸丑 258年 永安 (三國志) 10月己卯 (資治通鑑) 10月戊午はない 280年 太康 (三國志) 3月乙酉はない (他の資料) 4月乙酉 280年 呉滅ぶ (全資料) 3月壬申はない 304年 永安 (晋書) 1月丙午 (資治通鑑) 1月甲子 307年 永嘉 (晋書) 1月朔 (資治通鑑) 1月癸丑( 2日) 349年 太寧 (資治通鑑) 1月辛未朔、計算では戊寅朔 350年 永興 (全資料) 閏1月はない、閏2月か 363年 興寧 (全資料) 2月己亥はない 407年 建始 (資治通鑑) 1月辛丑朔、計算では 2月が辛丑朔 420年 永初 (晋書) 6月壬戌 (資治通鑑) 6月丁卯 559年 武成 (資治通鑑) 8月己亥はない 681年 開耀 (資治通鑑) 10月丙寅朔であり10月乙丑改元は誤 684年 文明 (資治通鑑) 2月壬子はない (旧唐書) 2月己未 697年 神功 (資治通鑑) 9月壬辰はない 765年 永泰 (資治通鑑) 1月癸卯朔でない、卯は巳の誤りか 938年 広政 (資治通鑑) 明徳改元は誤記と思われる 960年 建隆 (新五代史) 1月甲辰 (続資治通鑑) 1月乙巳 1232年 天興 (続資治通鑑) 4月13日甲子だが計算すると14日 (4) 年初(歳首)の扱い 中国では王朝によって年初(歳首)が異なっていました。各時期の月の表現 方法を一覧表にすると、下記の様になります(−は運用期間が1年に満たない ため存在しなかった月です)。 建 建 建 建 建 建 建 建 建 建 建 建 亥 子 丑 寅 卯 辰 巳 午 未 申 酉 戌 月 月 月 月 月 月 月 月 月 月 月 月 歳首建亥月 秦、漢初〜太初1.巳 10 11 12 正 2 3 4 5 6 7 8 9 歳首建子月 唐武太后載初0.子〜久視3.戌 10 正 臘 1 2 3 4 5 6 7 8 9 唐粛宗1.子〜同2.巳 − 子 丑 寅 卯 辰 巳 − − − − − 方臘永楽0.子〜同1.酉 − 正 2 3 4 5 6 7 8 9 10 − 歳首建丑月 新王莽始建国0.丑〜地皇4.戌 11 12 正 2 3 4 5 6 7 8 9 10 魏景初1.辰〜同3.子 11 12 正 2 3 4 5 6 7 8 9 10 歳首建寅月 その他の時期 10 11 12 正 2 3 4 5 6 7 8 9 本プログラムでは一貫して建寅月を歳首としています。これは歳首の切り替 え時に同じ年月が二度生じて指定が混乱することを避ける為です。従って2度 ある太初元年10,11,12月は、年初の方を太初0年、年末の方を太初元年として 扱います。1月以外を歳首にしている時期には何れも同様の読み替えが必要で す。読み替えが必要な場合は、皇帝名欄に歳首の月の十二支を()でくくって示 しています。 (5) 皇帝名について 皇帝名は、 1) 簡明な諡号(の略称)がある場合は諡号を用いる(漢の孝「武帝」等)。 2) 諡号が冗長の場合は廟号を用いる(清の高宗等)。 3) 王朝の最後の皇帝等の理由で1)2)がない場合は通称を用いる(蜀の後主等)。 4) 一般に正統としない分裂王朝の皇帝は姓名を用いる(前趙の劉曜等)。 という方針にしました。本プログラムは年号から暦日への変換を主に考えて 代始改元がある場合は、改元時に対応する皇帝名も改めるようにしたため、 必ずしも在位期間とは一致しません。また王朝の交代にも同様の不正確さが あります(例えば、唐→後梁の王朝交代は、3/27唐帝退位、4/18朱全忠即位、 4/22開平改元ですが、本プログラムは4/22の改元日付しか記憶していません)。 (6) 当て字について JIS第一水準及び第二水準にない字があるため、当て字を使っています。シ ステムに外字登録を行って、when(hv).rsc 中の下記の部分を書き換えればカスタ マイズできます。 conv(ert): "" # "広竜宝国応観亀斉霊摂寿万廃顕会聡総証礼" 略字体 # ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ "" # "廣龍寶國應觀龜齊靈攝壽萬廢顯會聰總證禮" 旧字体 "" # "門鹿青日日音王ノ王土豈王王金人牛奢" 成分(1) "" # "虫加見韋高欠宗ム番爽頁景分長辱建単" 成分(2) # ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ "" # "虫鹿覯偉昂韵淙ム潘爽豈瑁分長辱建単" (要変更) 門虫 7012 五代十国の国名 門がまえに虫 鹿加 (47614) 北魏の年号 鹿の下に加 青見 7121 前涼の張玄「青見」 青偏に見 日韋 3448 前燕の慕容「日韋」 日偏に韋 日高 3455 西涼の李「日高」 日の下に高 音欠 3781 西涼の李「音欠」 音偏に欠 王宗 4418 後梁の蕭「王宗」 王(玉)偏に宗 ノム (00121) 南宋の楊「ノム」 公の八をノにかえた文字 王番 4458 清の呉世「王番」 王(玉)偏に番 土爽 (05401) 台湾の鄭克「土爽」 土偏に爽 豈頁 7217 西燕の慕容「豈頁」 豈偏に頁 王景 4457 南唐の李「王景」 王(玉)偏に景 王分 4360 南漢の劉「王分」 王(玉)偏に分 金長 6848 南漢の劉「金長」 金偏に長 人辱 (00943) 南涼の禿髪「人辱」檀 人偏に辱 牛建 4272 北涼の牧「牛建」 牛偏に建 〃 代の什翼「牛建」 〃 奢単 2502 西夏の年号 奢偏に単の旧字体 (注)数字はJIS補助漢字番号(括弧なし)または大漢和番号(括弧入り) です。PC-VAN SIG ORIENT の massangeana さんが調べてくださったも のです。 本、ページのJIS X0208外字の表示には今昔文字鏡フォントセンタの GIFリンクシステムを使用しています。 2.暦法に関して (1) まえおき 中国においては伝統的に太陰太陽暦が用いられてきました。太陰太陽暦とは、 読んで字のごとく「月」は太陰(=月)の運動を基準にし、「年」は太陽の運 動(=本当は地球の方が動いている)を基準にする暦法です。我々が現在用い ている太陽暦では1年は12か月ですが、 1太陽年(季節が巡る周期) = 365.2422 日 ・・・・ (1) 1朔望月(月が満ち欠けする周期)= 29.530589日 ・・・・ (2) であり12朔望月は1太陽年よりも11日弱短いため、約3年に1度1年を13か月 とし、季節を調整します。 余分な月(閏月)をいつ挿入するかを決定する判断材料となるのが二十四気 です。二十四気は太陽の軌道上の位置により、下表の様に定義されます。偶数 番目のものを中気、奇数番目のものを節気といいます。中国では、特定の中気が 特定の月に含まれるように閏月を挿入するという方法がとられてきました(戊寅暦、 麟徳暦(=儀鳳暦)では啓蟄と雨水が入れ替わります[6]中國天文暦法史料)。 春 夏 秋 冬 二十四気 1:立春 315゜ 7:立夏 45゜ 13:立秋 135゜ 19:立冬 225゜ 2:雨水 330゜ 8:小満 60゜ 14:処暑 150゜ 20:小雪 240゜ 3:啓蟄 345゜ 9:芒種 75゜ 15:白露 165゜ 21:大雪 255゜ 4:春分 0゜ 10:夏至 90゜ 16:秋分 180゜ 22:冬至 270゜ 5:清明 15゜ 11:小暑 105゜ 17:寒露 195゜ 23:小寒 285゜ 6:穀雨 30゜ 12:大暑 120゜ 18:霜降 210゜ 24:大寒 300゜ (2) 四分暦 (1)(2)式より 19太陽年 = 6939.6018日 ・・・・ (3) 235朔望月 = 6939.6884日 ・・・・ (4) となり、19年に(235-19×12=)7回閏月を挿入すると都合が良いことがわかりま す(なぜこんな倍数が簡単に見つかるか興味のある方は、『初等整数論講義』 (when.doc参照)を読んでください−また近似分数を表示するには whenhv 365.2422 29.530589 (ret) などとします)。19太陽年=235朔望月の周期をメトン周期、この周期の4倍を カリポス周期といいます。四分暦とは、正確に、 1太陽年 = 365.25日 19太陽年 = 235朔望月 (故に1朔望月 = 29日499/940) が成立しているものとして計算される太陰太陽暦です。従って、四分暦では 76年を周期として同じ日付パターンが繰り返されます(言い替えると、ユリ ウス暦と四分暦の対照表は76年分あれば十分)。 中国の戦国時代から秦・漢の初期にかけて、6種類の四分暦が使用されて いたと言われています(要するに各国が勝手な暦を使っていたということで しょう)。 暦法名 資料 元期 干支 節気 年-365 月-29 ---------+--------+---------------+----+----+-------------+------------- 黄帝暦 文献[2] +1228331正子朔 甲子 冬至 1/4 499/940 センギョク暦 文献[2] +1171396正午朔 己巳 立春 1/4 499/940 夏暦 文献[2] +1328411正子朔 甲子 冬至 1/4 499/940 殷暦 文献[2] +1149071正子朔 甲子 冬至 1/4 499/940 周暦 文献[2] +1128251正子朔 甲子 冬至 1/4 499/940 魯暦 文献[2] +1048991正子朔 甲子 冬至 1/4 499/940 ------------------------------------------------------------------------ 秦から漢の初期にかけて使用されていたセンギョク(端の旁に頁、王偏に頁と書 く)暦は、最近の考古学的発見により、正子(真夜中の0時)ではなく正午 が起点(朔のみ、立春は正子のまま−PC-VAN の massangeana さんのご教示 による。このため、V2.05では四分暦計算アルゴリズムが変更になりました) であることが判明しました[2][3]。 秦・前漢のセンギョク暦では原則として冬至が11月に(または雨水が1月に)固 定され、固定月から翌年の固定月までが13ヶ月なる場合その間に閏月を挿入し ます。挿入する位置は年末です。秦・漢の初期は年初が10月であったため、後 9月が挿入されます。 本プログラムでは、確定的な暦法を提供することをあきらめ、カスタマイ ズ機能を利用して、ユーザがパラメータを調整できるようにしました。例え ばwhen.rsc 中の +-+-+- 表示範囲の下限及び上限(例はプラスマイナス無限大の場合) | | +- 四分暦法を示す(111035なら4カリポス周期を1日短縮) | | | +-----+- 元期はユリウス通日1171396の12時 | | | | | quarter5: -,+,2, 1171396, 12, 1041285, 12, -1, 9 # 5: 前漢センギョク暦 | | | | | +- Q# の # | | | +- 9月の後に閏月を挿入 | | +- 11月を固定 | +- 12ヶ月を単位として閏月を計算 +- 元期と固定する中気の差を1/940時間 単位で指定。この場合は冬至から立春 (0時)までの45度+同日12時までの 半日を意味する。 1度 = 22889, 1日 = 22560 を変えることによって、センギョク暦をカスタマイズすることができます。 (3) 平朔平気法 平朔平気(平気は恒気または常気という方が一般的か)法は、月の平均黄経 と太陽の平均黄経をもとに朔と中気を計算し、すべての中気を対応する月に固 定する暦法です。 春 夏 秋 冬 1月中 雨水 4月中 小満 7月中 処暑 10月中 小雪 2月中 春分 5月中 夏至 8月中 秋分 11月中 冬至 3月中 穀雨 6月中 大暑 9月中 霜降 12月中 大寒 中気の無い月を閏月にし、直前の月と同じ月番号に閏字をつけてあらわし ます(v2.04までの記述では、四分暦では置閏判定で朔の日の区切りを考慮し ないと書いてありましたが、これは私の文献誤読によるものでしたので、同 記述を削除します−massangeana さんのご教示による)。 平朔平気法は、前漢の太初暦から隋の大業暦まで使用されました。次表に、 中国で実際に使用された暦法のパラメータを示します。このうち玄始暦は、 律暦志に元期が記載されていない為、文献[1]から逆算して元期を推定しま した。この元期を元にした c1$f.rsc による玄始暦の計算値は、文献[1]のデー タと閏月の位置が6箇所ずれており、むしろ汪曰[木貞]古今推歩諸術攷 巻 上,22葉、等に一致します。これのもとネタは『開元占経』であろうとのこ とです(−これも massangeana さんのご教示による)。文献[1]では閏月の 間隔が35ヶ月になることがあり、人為的変更を考慮した結果であろうかとも 推定されますが詳細は不明です。資治通鑑の暦日は計算値の方によく適合し ます(これは資治通鑑プロジェクトの一貫として行われた計算によって元の 記録を置き換えたためと思われ、ある意味であたりまえのこと)。今後、北 史などの文献を調べてみる必要がありそうです。 暦法名 資料 元期 干支 節気 年-365 月-29 ---------+--------+---------------+----+----+-------------+------------- 太初暦 漢書 +1683431正子朔 甲子 冬至 385/ 1539 43/ 81 四分暦 後漢書 +1662611正子朔 甲子 冬至 1/ 4 499/ 940 乾象暦 晋書 -898129正子朔 甲子 冬至 145/ 589 773/ 1457 景初暦 晋書 +330191正子朔 甲子 冬至 455/ 1843 2419/ 4559 三紀暦 晋書 -28760989正子朔 甲子 冬至 605/ 2451 3217/ 6063 玄始暦 魏書 -20568349正子朔 甲子 冬至 1759/ 7200 47251/ 89052 元嘉暦 宋書 -200089正子朔 甲子 雨水 75/ 304 399/ 752 大明暦 宋書 -17080189正子朔 甲子 冬至 9589/ 39491 2090/ 3939 正光暦 魏書 -59357929正子朔 甲子 冬至 1477/ 6060 39769/ 74952 興和暦 魏書 -105462049正子朔 甲子 冬至 4117/ 16860 110647/208530 天保暦 隋書 -38447089正子朔 甲子 冬至 5787/ 23660 155272/292635 天和暦 隋書 -317950249正子朔 甲子 冬至 5731/ 23460 153991/290160 大象暦 隋書 -13244449正子朔 甲子 冬至 3167/ 12992 28422/ 53563 開皇暦 隋書 -1506155749正子朔 甲子 冬至 25063/102960 96529/181920 大業暦 隋書 -519493909正子朔 甲子 冬至 10363/ 42640 607/ 1144 麟徳暦* 旧唐書 -96608689正子朔 甲子 冬至 328/ 1340 711/ 1340 ------------------------------------------------------------------------ * 日本書紀において平朔で使用されている (4) 定朔平気法 定朔平気法は、月の視黄経と太陽の視黄経をもとに朔を計算し、太陽の平 均黄経をもとに中気を計算し、すべての中気を対応する月に固定する暦法で す。以後の計算は平朔平気法と同様です。 定朔平気法は、唐の戊寅暦(一時期平朔で使用)から明の大統暦(実質的 に元の授時暦とほとんど同じ)まで使用されました。月の運動は一様でない ため、定朔平気法では大の月(30日まである月)が4ヶ月続くことがあります。 また、朔が午後6時以降の場合翌日を1日(ついたち)にするという進朔が 唐から宋にかけて行われていたようです。日本で八百年以上も用いられた宣 明暦も唐代の暦法であるため原則として進朔が行われていました。 朔閏表一覧の注にも書いておりますように、五代十国時代には暦法不明の 時期があります。文献[1]にはこの時期の暦日も記載されていますが、精度は 前後の時期よりもかなり落ちるのではないかと推定されます。 添付した senmyo.rsc は宣明暦法で計算を行う為のカスタマイズ・データ です。施行された宣明暦とは暦日の人為的変更により120か月ほど不一致にな ります。二十四気を求めるために二十四気を漢字で指定して senmyo.rsc を 使用する場合は、コマンドラインではなく必ず環境変数で指定してください (set whenhv=+senmyo$s)。ただし、二十四気も、建仁2年(1202)の冬至と弘 安4年(1281)の秋分が、人為的に一日後ろにずらされています。 (参考)日本で施行された暦法での平気の二十四気の計算式を示しておきます。 ただし、えられる数値はユリウス通日に 0.875を加えたもの(日本時間午前0 時に端数がなくなるようにしている)、Y は西暦年数、T は西暦1684年からの 満年数、N は冬至を 0 番とした二十四気の通し番号です。中国起源の暦法は 対応する律暦志の定数に従って定義通りに導出したもの、日本起源の暦法は 日本暦日原典のデータを元に逆算したものです。 -200089.0 +((Y+(N-4)/24.0)+ 5260.0) * (365.0+ 75/ 304.0); -697 -96608689.0 +((Y+ N /24.0)+ 269216.0) * (365.0+ 328/1340.0); 698- -35412747829.0 +((Y+ N /24.0)+96961016.0) * (365.0+ 743/3040.0); 764- -2580308749.0 +((Y+ N /24.0)+ 7069316.0) * (365.0+2055/8400.0); 862- 2336118.675000 + 365.241696*T-1.0E-6*T*(T-1)+(365.241696-2.0E-6*T)*N/24 1685- 2336118.689990 + 365.241696*T-1.0E-6*T*(T-1)+(365.241696-2.0E-6*T)*N/24 1687- 2336118.903800 + 365.241696*T-1.0E-6*T*(T-1)+(365.241696-2.0E-6*T)*N/24 1753 2336118.622300 + 365.241696*T-1.0E-6*T*(T-1)+(365.241696-2.0E-6*T)*N/24 1754 2336118.622100 + 365.241696*T-1.0E-6*T*(T-1)+(365.241696-2.0E-6*T)*N/24 1755- 2336118.762200 + 365.241766*T-1.0E-6*T*(T-1)+(365.241696-2.0E-6*T)*N/24 1771- 2336118.720200 + 365.242360*T +(365.242360 )*N/24 1798- (天保暦は定気ですのでここにはあげておりません。また五紀暦は儀鳳暦と完 全に一致しますので、698- の式を使用できます) (5) 定朔定気法 定朔定気法は月の視黄経と太陽の視黄経をもとに朔と中気を計算し、いく つかの中気を対応する月に固定する暦法です。定朔定気法は、清の時憲暦で 採用され、太陰太陽暦の廃止まで使用されました。また日本でも天保暦で採 用され、いわゆる「旧暦」も定朔定気法で計算されています。地球が近日点 を通過する1月頃は、太陽の動きが速いため、中気と中気の間隔が朔と朔の 間隔よりも短くなります。このため平気法の様に単純に月番号を決めること ができず、置閏規則は複雑になります。 中国では、まず、康煕甲子元法上(『中國天文暦法史料』及び文献[3]PP283 参照)により、 1) 冬至を含む月を11月とする。 2) 次の冬至まで13ヶ月ある場合、中気を含まない最初の月を閏月とする。 とされ、さらに嘉慶年間に、 1) 冬至を含む月を11月、春分を含む月を2月、夏至を含む月を5月、秋分を 含む月を8月とする。 2) 閏月は中気を含まない月に置く、しかし中気を含まなくても必ず閏月にし なければならない訳ではない。 と改められました(原文未確認)。日本の天保暦も後者に基づいています。 今仮に、前者を中国流、後者を日本流と言うものとすると、明らかに中国流 の方が矛盾のない規定です。日本流では二至二分間の月数が足りない場合 (1699-1700年−表A、2033年−表B)や、月数が余っても中気のない月を複 数を含む場合(2033-34年−表B)の扱いがはっきりしません(従って、本 プログラムの計算法には、私の独断がはいっています)。面白いことに、中 国においても日本においても暦法の施行期間中には、次の冬至まで13ヶ月あ り、かつ、中気を含まない月が複数あるような具体例は発生しなかったよう です(本計算と時憲暦、天保暦とのずれは10分未満と推定しています)。 表A 1700年年初付近の朔 1700年年初付近の中気 1 Nov 21 23:52 Nov 22 8:31 小雪 2 Dec 21 17:54 Dec 21 20:47 冬至 冬至を含む月 3 Jan 20 13:20 Jan 20 7:24 大寒 ? Feb 18 22:35 雨水 4 Feb 19 8:33 春分を含む月 Mar 20 23:25 春分 5 Mar 21 1:46 6 Apr 19 15:51 Apr 20 12:39 穀雨 7 May 19 2:45 表B 2034年年初付近の朔 2034年年初付近の中気 1 Jul 26 17:12 Aug 23 4:02 処暑 2 Aug 25 6:39 閏7月? 3 Sep 23 22:39 Sep 23 1:51 秋分 秋分を含む月 4 Oct 23 16:28 Oct 23 11:27 霜降 ? 5 Nov 22 10:38 Nov 22 9:15 小雪 冬至を含む月 Dec 21 22:44 冬至 6 Dec 22 3:46 閏11月? 7 Jan 20 19:01 Jan 20 9:26 大寒 Feb 18 23:29 雨水 8 Feb 19 8:10 閏1月? 9 Mar 20 19:14 Mar 20 22:16 春分 春分を含む月 10 Apr 19 4:25 Apr 20 9:03 穀雨 11 May 18 12:12 本プログラムでは、日本流中国流いずれにも対応するため、カスタマイズ 機能を利用して、ユーザがパラメータを調整できるようにしました。 whenhv.rsc の # 閏月の計算単位(月数) 中気を固定する月 その中気の太陽黄経 #leap: 3, 2, 0 # ↓ ↓ ↓ leap: 12, 11, 270 を参考にしてください。whenhv.rsc を + オプションで指定すれば、中国流 の太陰太陽暦も計算できます(地方時を SET TZ=-8 とすることを忘れないで)。 3.朔閏表一覧 (1) 一覧表 中国では同一時期に複数の王朝が並存し、異なった暦法を使うことが多かっ たため日付データベースを1本の朔閏表で表すことができません。以下に本 プログラムで使用している朔閏表の一覧表を示します。センギョク暦のみ文献[2] で、その他は文献[1]によっています。 朔閏表 #1 秦・漢 センギョク暦 -221 〜 -162 (冬至を11月に固定) -221 〜 589 漢 センギョク暦 -161 〜 -103 (雨水を1月に固定) 漢・新 太初暦 -103 〜 84 漢・魏 四分暦 85 〜 237 魏・晋・宋 景初暦 237 〜 444 (泰始・永初暦も同じもの) 及び十六国 宋・斉・梁 元嘉暦 445 〜 509 (建元暦も同じもの) 梁・陳 大明暦 510 〜 589 及び後梁 朔閏表 #2 蜀 四分暦 221 〜 264 (東漢の四分暦を使用) 221 〜 264 朔閏表 #3 呉 乾象暦 222 〜 280 222 〜 280 朔閏表 #4 後秦 三紀暦 384 〜 417 (計算による) 384 〜 417 朔閏表 #5 北涼 景初暦 397 〜 412 397 〜 439 北涼 玄始暦 412 〜 439 (計算による) 朔閏表 #6 東魏 正光暦 534 〜 539 534 〜 577 東魏・北斉 興和暦 540 〜 550 北斉 天保暦 551 〜 577 朔閏表 #7 北魏 景初暦 386 〜 451 386 〜 1279 北魏 玄始暦 452 〜 522 (文献[1]による) 北魏・西魏 正光暦 523 〜 565 及び北周 北周 天和暦 566 〜 578 北周・隋 大象暦 579 〜 583 隋 開皇暦 584 〜 596 隋・唐 大業暦 597 〜 618 唐 戊寅暦 619 〜 664 唐・周 麟徳暦 665 〜 728 総法 1340(小余の分母) 唐 大衍暦 729 〜 761 通法 3040( 〃 ) 唐 五紀暦 762 〜 783 通法 1340( 〃 ) 唐 正元暦 784 〜 806 唐 観象暦 807 〜 821 唐 宣明暦 822 〜 892 統法 8400( 〃 ) 唐〜後晋 崇玄暦 893 〜 938 後晋 調元暦 939 〜 943 後晋〜後周 不明*1 944 〜 955 後周・宋 欽天暦 956 〜 963 宋・西夏 (略) 964 〜 1279 朔閏表 #8 遼 不明 907 〜 946 (五代の日付と一致) 907 〜 1125 遼 調元暦 947 〜 994 遼 大明暦 995 〜 1125 朔閏表 #9 金 (略) 1115 〜 1122 (北宋の日付と一致) 1115 〜 1234 金・西遼 大明暦 1123 〜 1181 金・西遼 重修大明暦 1182 〜 1234 朔閏表 #10 元 (略) 1206 〜 1214 (南宋の日付と一致) 1206 〜 1911 元 重修大明暦 1215 〜 1280 元・明 授時暦 1281 〜 1644 (大統暦もほとんど同じ) 清 時憲暦 1645 〜 1911 朔閏表 #11 南明 授時暦 1645 〜 1661 1645 〜 1683 台湾鄭氏 時憲暦 1662 〜 1683 *1 新五代史によればここは再び崇玄暦 (2) 文献[3]等との相違 ・後秦と北涼を除く十六国は景初暦と同様とみなした。 ・後梁(555〜587)は暦法不明で大明暦とみなした。 ・十国は五代と同様とみなした。 ・北魏・遼・金・元・清の最初期はそれぞれ東晋・五代・北宋・南宋・明 と同様とみなした。 ・西夏・西遼はそれぞれ宋・金と同様とみなした。 ・台湾の鄭氏政権は授時暦であるべきところ時憲暦になっている。